最近のザッパ関連収穫物。ミュージックマガジン1987年3月号。ザッパのインタビューが掲載されている。このインタビューは読んだことがなかった。
インタビューアは花房浩一氏。冒頭にインタビューすることになった経緯が記されている。当時、スマッシュの日高正博氏がザッパの来日交渉をしており、ザッパの方から会って話をしようということになって、それに同行したということのようだ。
しかし、実際に会ってみると、ザッパからは来日公演について以下のようなシビアな発言がなされる。(以下引用。)
「どれくらいのギャラを考えてるのか知らないが、僕のエージェントが言ったのは不思議な額じゃない。正規のツアー、そう、満足できるライヴをするためには最低2カ月のリハが必要で、そのための場所やミュージシャンへの支払い、そして演出のための器材……それだけでも最低25万ドルはかかる。しかも、僕のギャラなしでだ。それに器材の運搬やクルーを雇わなければいけないし、ツアーとなればまた同じ額が必要だ。実際、ペイするために最低2カ月はツアーさ。そう、自分の利益を得るために4カ月と50万ドルの金が必要なんだ。前は人のいいプロモーターがやってくれたけど、日本じゃ数回の公演だろ。やはり不可能さ、それだけの金を捨てる覚悟がなけりゃ。しかも、今の僕は日本じゃ忘れられた存在じゃないか。」
いかにもザッパらしい言い方だ。彼はミュージシャンでありつつもレコード会社の言いなりにはならず、自分自身でレコード制作やツアー企画を取り仕切ってきた経歴もあるから、こういう現実的な発言になるのだろう。
当時、「ザッパが来日するかもしれない」という噂を聞いた記憶があるけれど、交渉自体はしてたんだから、根拠のない話ではなかったんだな。
ところで「今の僕は日本じゃ忘れられた存在」というザッパの認識はどうだろう。新作を出してもリリースしてくれる日本のレーベルが(その時点で)ないということからそういう発言になったのだろうが、前回のエントリで書いたように、1986年の初CD化によって、日本でも(自分のような)新しいファンが増えつつあったと思うのだが。
この発言の後、ザッパは、コンサートの代わりに彼の音楽で花魁にダンスをさせるバレエとファッションショーの中間的なものをやってみてはどうか、という提案をしている。
そして、記事のタイトルにもなっている「レコードを出すことが多いから一般の人は僕を音楽家だと考えるんだろうけど、それはひとつのメディアに過ぎない。」という発言があり、音楽業界や音楽評論家への批判もなされている。
続いて自分の作品の通信販売のこと、妻ゲイルや息子ドゥイージル、娘ムーンの話題(「ザッパ・ファミリー・アルバム? ありえないね。みんな全く違う方向を持ってるわけだから、いいものができるはずがないだろ」)を経て、「政治的にシリアスなテレビ番組を作ってみたい」という話から政治の話題に進んでいったとある。
ちなみにインタビューの中で「今は積極的にツアーをしたくはない」と発言しているザッパだが、翌1988年にはホーンセクションを含む大編成のバンドで米国&欧州ツアーをおこなうことになる。バリー・マイルズのザッパ評伝によれば、このツアーで40万ドルの損失を出したらしい。これが彼の生涯最後のツアーとなった。
この号を読んでいて思い出したのだが、この頃のミュージックマガジンの巻末には「CD MAGAZINE」というコーナーがあり、メインの新譜レビューとは別に、CDとして発売された作品のレビューや特集が載っていた。まだまだCDが主流になる前の時期だったのだなあと当時を思い起こしてしみじみする。表4広告はビートルズ初CD化4タイトルでした。